秀吉と文禄の役 フロイス「日本史」より

秀吉

豊臣秀吉 1537-1598
天地人」も10日ではいよいよ「本能寺の変」信長がどのような行動をとるか,光秀がどうなるかが楽しみです。この書は,前回のフロイスの「日本史」で信長を語った後の記録になった,秀吉の時代のものです。ここでも本当にあった歴史話でも聞かされるような事実?でわれを忘れてしまいそうになります。

なぜに秀吉はシナを征服しようとしたのか。唯一の息子(鶴松)の夭折(3歳)の悲しみのあまり,甥(姉の子)秀次に天下を譲り,強大な軍勢で支那を武力で征服して「自らの名を後世に不滅ならしめ,その回想を永遠に留めようと決意した」と述べています。しかし,その蛮行の困難さも理由を挙げています。1.日本中が秀吉に反抗する危険があった 2.日本人はもともと他国民と戦争するのに訓練されていない 3.海路を使うのだが,武将たちには船舶や水夫,航海術も持ち合わせていなかった 4.上陸するのに定められた期日があまりにもなかった。そんななかで多くの者が外国で困難な中,死を求めに行くより,日本で自害するほうがましだという絶望感になっていたというのです。

面白いのは秀吉は秀次に教訓を述べてはいるがまた,真似てはいけないことがあることも残しています。賎しく,下層の家の出身ではあるが,最高最上の位階に到着したが,真似てはいけない悪癖がある。1.一種の軽率さで自身もそれを感じている 2.遊楽のために種々の場所に多数の女たちを囲っている 3.過度に茶の湯の招きに応じ,狩猟も愛好しすぎる。「本願寺文書」ではフロイスの内容とは少し違っているようです。鷹狩や茶の湯も人を招いてすることはいいことで,女も5人10人も城の中なら問題ないとも言っているようです。軽率で女癖が悪く,趣味三昧は,現代人をも戒めているようです。「文禄の役」1592年「慶長の役」1598年と続いた野望も1598年に秀吉の死によって終結したのでした。なおフロイスは秀吉の死の前の1597年に長崎でなくなっており「日本史」も秀吉の時代で途絶えたのでした。


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