薩摩藩英国留学生 犬塚孝明
- 作者: 犬塚孝明
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1974/01
- メディア: 新書
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題名その通りなのですが,いつごろどのような人物がなんのために・・といろいろと疑問が湧き出る著書でもあります。当時の薩摩の名君島津斉彬(1809-1858)が1857年(安政4年)に英国に留学生を送ろうとしたのです。もちろん当時は海外渡航は国禁でもあり幕府にでも知られたら大変なことになります。薩摩藩は薩英戦争で英国艦隊からの砲撃をうけ,痛いほど近代兵器の威力を体験していて,攘夷の愚かさを身にしみて感じていました。そのため一刻も早く,西洋諸国の陸海軍術,砲術,天文,地理,製薬などを学ぼうとしたのでした。15名の留学生は13歳から31歳まで幅広い年齢層で,薩摩藩の洋学養成所「開成所」から選抜されたエリートばかりでした。彼らはそれぞれ将来家老職に就く人や,農耕,病院,機械などを中心に学ぶことなど,最初から目的がはっきりしていました。このような考えを持つ藩は当時は薩摩藩だけでした。斉彬の写真も現存する日本人の最初のものと言われているほど,早くから西洋に目が行っていたのでした。
倫敦到着後の留学生(前列左から)畠山義成・森有礼・市来和彦・中村博愛 (後列左から)高見弥一・村橋久成・東郷愛之進・名越時成
(前列左から)町田清蔵・町田民部・磯永彦輔 (後列左から)田中盛明・町田申四郎・鮫島尚信・松木弘安・吉田清成
しかし,帰国して明治政府の要職をこの留学生たちには与えられなかったのです。このことが最大の疑問点であり,何故だろうという興味をわかせるところでもあります。西郷隆盛や大久保利通のような政治的指導者にどうしてなれなかったのか。著者は,西洋倫理思想が「武士とは別個の西洋的人間に仕立て上げてしまっていた」と言います。彼らは一専門技術者としてしか新政府では遇せられなかったのです。そうして,あるものは仏門に帰依したりするものまでいました。東京国立博物館の創立者,東京大学の初代校長,生野鉱山の長,日本で初めての外交官,初代文部大臣などなど。その中でも長沢鼎(磯永彦輔)は異色です。13歳の若さで渡英しその後米国で葡萄酒工場の経営に成功して大農園主になったのでした。
葡萄王の異名をとり,「サクセスワイン」の名で米国,欧州でも,日本にも輸入され,大資産家となったのですが,生涯,独身で過ごし,日本にも2度帰国しただけだと言われています。しかし日本を離れるとき,幕府の目から逃れるために,藩主からつけられた長沢と言う名前を生涯使い,「薩摩」すなわち「日本」が彼の心から離れることはなかったようです。このような激動の時代を,国禁まで犯して「西洋」を学び,生きた青年たちのことを,現在あまり知られていないのも残念なことです。