一外交官の見た明治維新 アーネスト・サトウ

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一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)

一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)

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一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)

アーネスト・サトウ Sir Ernest Mason Satow(1843-1929)「明治維新の前後を通じ25年も日本に滞在した人」とあります。来年は横浜が開港150周年の記念の年を迎えます。開港から3年目(1862年)にアーネスト・サトウは横浜に到着しています。そして1週間もしないうちに「生麦事件」が起こります。怒涛のように揺れ動いた時代にあって,青年外交官とし赴任した日本を「外国人」の目から見た記録が記されています。読んでいくなかで明治維新の志士たちが続々と登場,あるときは攘夷に刃でねらわれたりで彼自身も波乱の時代,青春を日本で過ごしています。当時の日本の人情・風俗・習慣があまりにもあたりまえで,記録されてなかったものが「一外交官」の目でもって書かれたところに貴重な資料性があるわけです。あるときは「ハラキリ」を冷静な?目で描いていたり,維新の志士のエピソードを書いています。「腹切はいやな見世物ではなく,きわめて上品な礼儀正しい儀式で,イギリス人がよくニューゲート監獄の前で公衆の娯楽のために催すものよりも,はるかに厳粛なものだ」と書いています。横浜にあるイギリスの一流商社として「アスピナル・コーンズ」「マックファーソン・マーシャル」と出てきます。今では車のマセラティフェラーリを取り扱っている「コーンズ」が横浜に生まれたのが1861年ですから同じ時代を生きてきているわけです。

彼によれば「日本は238年の間,かぎりなき泰平の夢をむさぼっていた。日本は,森の中に眠る美姫にも似ていた。」とある。また演劇を(忠臣蔵皿屋敷)などを「今後もずっと日本人の娯楽と慰みの場所であってほしい」という気持ちも持っているのです。「生麦事件」は外国人の仲間が殺された最初の事件だったので大きな衝撃を与えたようです。「日本刀は剃刀のようによく切れ,おそろしい深手を負わせる」としています。初めての地震にもあっています,11月2日「誰か,非常に重い人間が縁地の上靴で縁側や廊下を歩いてでもいるように」と表現しています。買い物でも日本の地図と大名や政府の役人の公職名簿「武鑑」は買えなかったようですが,実際は日本人教師を通していくらでも手に入ったようでもあります。

彼の名のサトウも日本人に知られるのに便利だったようで,「佐藤」という名前ですぐに覚えられたのでした。西郷隆盛の印象を「黒ダイヤのような光る大きな目玉をしているが,しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」と書いています。また,西郷との政治談議はまるで時代劇を見るような臨場感があります。「さよう。実際昨日は乞食のような浪人大名に等しかった男が,今日は征夷大将軍です」と西郷は一橋(徳川慶喜)のことを評しています。NHK篤姫」の一場面を見るようです。この激動の時代が話題になり人々の共感を得るのは古い日本と,これからの日本が,諸外国の軋轢の中で生まれ変わろうとしている姿が生き生きとして見れるからだと思います。

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